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「躓き」

「CROSS」 四六判半裁
「CROSS」 四六判半裁

「躓き」

 

 

あなたにとって何が躓きとなるだろうか?

日常生活の破綻だろうか?

仕事上のミスだろうか?

人間関係の綻びだろうか?

なんにしても躓くというのは、その事象の表面だけで躓くものだ。

重要なのは躓いた先で本格的に転んでしまうか、むしろキリッと立ち直すかだ。

その典型的な例が聖書に書いてある。

 

聖書の世界では、人々がキリスト・イエスに躓いたと記述がある。

つまり人間が神様に躓いてしまった、というわけだ。

イエスが奇跡を起こしたり、言動があまりに突飛なので、側近の弟子達も助けられた民衆達も理解できなかったのである。

それにしても神様に対して躓いたとは、なんと罰当たりなことだろう。

私はこの箇所を読むと胸が締め付けられてしまう。

人々のために尽くしていたキリストは、孤独感と疎外感の中で、それを裏でどんなに悲しんだことだろう、と思うのだ。

どんなに大物で神様であったって、人間の感情を誰よりも持って生まれた神様なのだから人一倍悲しんだろうと思うのである。

 

キリストは、自分が死へ向かい復活することが、神の国の完成なのだとしつこいくらいに説いた。

それを自分の生きざまや様々な喩え噺を用いて、当時の民衆にわかりやすく話そうと思ったわけで、怪しい教育をしようとしたわけではない。

イエスの全ての言動は、人々に「キリストの平和」つまり「永遠の平和」を配るためであった。

しかしながら弟子や民衆は、イエスの風変わりな発言に、見た目だけで躓いてしまったわけだ。

これは、結局は、表を見て中身を見ていないということである。

 

しかし、イエスへの躓きの先はどうだろう?

イエスを信じて、よろめきを克服した人間には、天の国の門が開かれ永遠の救いが与えられるようになっているではないか。

裏で悲しんだイエスを信頼しきることで、躓きの先に「永遠の平和」が与えられているわけだ。

躓きはするが、信仰を固めてキリッと立ち直すことで、天の国へと直行できるわけである。

これが何よりもの教えなのである。

 

このように人間は、躓いても、その事象の意味するところを克服できれば、パワーアップして立ち直れる。

つまりは、新しい人間としてイエスのように「復活」できるわけである。

また、たとえある事で躓いて本格的に転んでしまったとしても、それは地獄へのルートなのではなく、その後に人間の善性に向けて方向転換すれば、必ず「復活」できることも、イエスに約束されているのだ。

 

言ってみれば「躓き」は、試練だ。

それは、神様の重要な教え一つなのである。