「エッセイを書くことについて」
(写真は昨晩11/8(火)の422年ぶりの皆既月食)
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毎日毎日エッセイを書いていると、正直ネタに尽きる問題がある。
だから、同じ概念のことを文章を変えて言い換えたりして、日を空けて繰り返し説いている。
まあ、それは私の伝えたいことを他者に分かってもらう意味では反芻する価値がある。
しかし、エッセイと言いながら、それしか書けないのも問題である。
というのは、私は正直、そればっかりに目が行き、それしか書けないのだ。
私の興味のあることは、人間の真実であり、それは愛と勇気であり、光そのものの事である。
そして、それを作っている神様の偉大さに最大限の関心を持っている。
そこの真髄ばかりを書いていて、枝葉の話題になかなか行かないのだ。
いや、この世界は森羅万象、有象無象のなんでもあり。
本来ネタに尽きることなどあり得ないのだ。
しかし、私が関心のあるネタというと限られていて、その外側の事にはなかなか意識が及ばないのである。
それは、私が忙しすぎて圧倒的に読書の数が足りていないことに起因している。
私は、アウトプットばかりでインプットが足りていないのである。
つまり、頭に、エッセイの素材を仕入れていないのだ。
持ち札が足りてないから書けないのである。
料理だって素材がなきゃ、具なしの素スープ同然になってしまう。
それを、シチューやカレーや麻婆豆腐にするには、具材を吟味して仕入れなきゃならない。
肉や野菜や豆腐などをインプットするから、しっかりした料理に化けてアウトプットされ、提供できるのである。
まあ、そんなこと言えば芸術一般は全部そうだ。
素材を仕入れて料理を作る事と一緒である。
その料理が、決まりきった定食なのか、名前のつかないオリジナルなのか。
それを、表現としてさまざまな媒体で行なっているのが、芸術である。
言葉や絵の具や紙や木や石や金属、ひいてはフィルムや電子データなど、あらゆる有象の素材を用いて自分の心の有り様を、芸術家は作品として作っているのである。
おお、ここまで書くと、「そういや今日は、エッセイらしきものが書けたなあ。」と、思う。
今日のはエッセイがよりエッセイらしい。
「エッセイ」はつまり「随筆」のことであるが、今日のは、徒然なるままに書いている本来の自由な形式にとても沿っている。
「随筆」と書くと仰々しいので、軽くおしゃれな気持ちを込めて「エッセイ」と、私は日々思いつく文章の構成単位の名前に用いているのである。
今日はエッセイや芸術一般の表現の方法論だけを論じて、エッセイが一つ書けてしまった。
ネタなんか、仕入れた具材なんか何にもなく、思った事以外にない。
料理で言うと、塩や胡椒だけで素スープを作った格好である。
私は、これからちゃんとこれを料理するべく、何より。。。
読書せねばな。。。!