2018年 グランドニッコーホテル台場の展示
作者近影 2018
「平和の種として死す」
先日、カトリック総本山バチカンのローマ教皇様の御教勅が発表された。
それは「自分が平和の種として死にましょう。」というセリフだった。
死にましょうと言ったって、本当に肉体的に死んではいけない。
「死にましょう。」というのは、「他者に全力で尽くして自分を無にしましょう。」という意味だ。
つまり自分自身を無にして他者への捧げ物にする。
それが「死ぬ。」ということだ。
無に死した自分が平和の種として、この世に撒かれる。
その平和の種が成長していくにつれ、平和の花が咲き、平和の実がなる。
地球上のあらゆるところにそういう平和の種が撒かれていけば、世界は必然的に平和の楽園となっていく。
つまりこの世は天国になる。
そういう発想である。
もう一人のローマ教皇と言われるキリストの私は、それにもう一つ付け加えたい。
「自分をイキイキと生きろ。」と。
それは、自分の人生を命懸けで一生懸命生き切るということだ。
そのためには、今この瞬間をイキイキと生きる他ないのである。
「イキイキと生きた結果、それが他者への献身に結びつき、自分が無となり死して平和の種となりましょう。」
私が言いたいのは、そういうことである。
ローマ教皇フランシスコも、キリストの私も、世界が平和になるのを切に願っている。
そのためには、人類のひとりひとりが、自分の活動を通して平和への捧げ物にならなくてはいけない。
「イキイキと生きて平和の種として死す。」
それがみんなできるようになったら、世界は必然的に平和に包まれるだろう。