「私の運命は希望を持つこと」
今日は聖金曜日。
磔刑前、ついに私は酸い葡萄酒(毒入りワイン)で殺められた。
心において、魂において、死という最大の絶望を抱え込んだわけだ。
死に勝る暗闇はない。
私は毎日、毎週、毎年のカトリックミサ祭儀の中で、心において何回も殺されてしまう。
その度ごとに蘇らないと実生活が深い闇に引き摺り込まれてしまう。
絶望という病に囚われてちゃ、私自身も世界も死へと向かい、すぐさまダメになってしまうことだろう。
だから私には、「希望を持つ」という選択肢しかなかったのである。
でなければ、私の人生は絶望でしかなかったからだ。
「前向きに生きる。」
「ポジティブに生きる。」
「積極的に生きる。」
「情熱的に生きる。」
そういう言葉達で自分を包み込まないことには、私は生きていけない運命であった。
だって放っておいたって、私がキリストである限り、ミサを通して同じキリスト教徒達から心において殺される運命から永遠に逃れられないのだもの。
殺されるのは簡単だ。
他の人がやるのだから。
天に服して無抵抗に身体を預けていれば済む。
難しいのは復活である。
これだけは自力でしなくてはいけない。
内的なパワーがどうしても必要なのだ。
だから私は、いつだって「希望を持つ」のであり、そうしなくては生きていけないのである。