「復活徹夜祭を超えて」
今日はついに復活徹夜祭。
これを乗り越えれば復活祭となる。
この儀式は1時間半ほどの長丁場となり、洗礼志願者が式で水で洗礼を受ける。
今年は6人志願者がおり、静けさの中でダイナミックにそれぞれ志願者が受洗した。
神父様の説教も素晴らしかった。
我々キリスト者は、死から復活への過越しをすることで生まれ変わり、人や世界や全ての生ける者の美しさを感じる。
その人間本来の持つ「美を感じる心の復活」について仰られていた。
実は今年は、私の彼女・森木愛琥が受洗し、霊名「マリア」を授かった。
霊名とは仏教で言えば死んだ後の戒名のようなものであり、キリスト教では生前にそれがつく。
そして彼女の場合、今日からキリスト教徒のスタートである。
マリアとしてこの世の生を生き、心においてキリストと共に生活していくことになる。
また死後、天に召されたのちにもマリアとして迎え入れられ、天国での生活も無事保証されたこととなるのである。
私にとって復活徹夜祭で最も心に響いた司祭の言葉は、「死と罪に打ち勝ちました」。
これである。
すなわち「復活」のことである。
私にとってこの言葉以上の救いはないと、心から思った。
この言葉をこの場で聞いて初めて、私の努力が報われたと本当に安心し、胸を撫で下ろせた。
公式にこれを最大限に褒め称えてくれる日は、今日をおいて他にないだろう。
もちろんこのフレーズは毎週のミサで司祭が唱えることであるのだが、今日唱える場合は全く重みが違ってくる。
宇宙を総括する人間の形をした神が、命を吹き返す重大な出来後のなのだから。
だから今日はこの「打ち勝ちました。」が心に響き、本格的に打ち勝った日であったと心底感じられたのである。
復活徹夜祭という儀式の場で、瀬田教会の心ある信者の総参列と共に行われる「復活」。
この勝利の記念はここにしかない。
私は復活した。
そして「死と罪に打ち勝った。」
「聖なる過越の三日間」が毎年あるおかげで、私の人生は誰よりもドラマチックであるだろう。
確かに通年、ミサ儀式において死ぬことは辛い。
しかし、復活して新たな命として蘇った時には、誰よりも強く命の充足と幸せを感じるのである。
なんでもない普通の日常が私にとっては命をかけた試練であり、一生涯、「生きること」と「死ぬこと」を、私ほど強く体感し続ける人間は他にはいないだろう。