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「愛すれば感動が訪れる」

『CROSS』八切りサイズ

【CROSS】(八つ切りサイズ 38×27cm / アクリル絵具・ラッカースプレー・画用紙)77,000円 (画像1枚目) (ご購入希望の方はDMお願いします。)
【CROSS】(八つ切りサイズ 38×27cm / アクリル絵具・ラッカースプレー・画用紙)77,000円 (画像1枚目) (ご購入希望の方はDMお願いします。)

作者近影

披露宴にて  私と妻:愛琥とスタッフ:イケさんと3人で3ショット
披露宴にて  私と妻:愛琥とスタッフ:イケさんと3人で3ショット

「愛すれば感動が訪れる」

 

 

毎日感動して生きるなんて難しいかもしれない。

本当に感動することなんか、一生に数えるくらいかもしれない。

でも、感動は些細なことでも毎日あったほうが良いと思う。

こちら側からアクションしたことによる意識的な感動、と言ったものはできるんじゃないかな。

対象物を行為によって愛した結果訪れる、心から安心した感覚。

最初に答えを言ってしまうと、

「感動とは、何かを愛したことによって起こる神様の奇跡」だ。

 

ちょっと違うことをして、違う発見をした時に、ああそうだったと深く思うものだ。

そういう感動なら毎日味わえるだろう。

つまり、それは対象物を愛していることに他ならない。

そういう瞬間に、悟りのように感動が訪れるのである。

 

感動して生きることが何で良いかといえば、感動こそ、「生きてる証」を自分でだけで味わえる瞬間だからである。

つまり、証である「愛」を味わえる。

だから感動なのだ。

その瞬間こそ神様の与えた最大の贈り物なのだ。

 

毎日毎日変わらない生活を続けていれば、そりゃ感動はないだろう。

別に「泣く」までいかなくたって、自分が愛に少しでも揺れ動けば、それは感動なのである。

感情が動くと書いて「感動」である。

愛によって自分の中身が、本質が、動く時だ。

 

私の場合は、ドラマチックな映画を観た時に、演者の愛に関わる行為の背景に、素晴らしい音楽と映像美術が合体して共に流れる瞬間、背筋がスーッとヒンヤリなる感覚がある。

その時、深く深く愛を味わった、と思う。

つまり、感動しているのである。

 

聖書の話をすると、イエス・キリストの生涯は、愛の感動の連続であった。

イエスだけではなく、イエスの関わる仲間や末端の人々全部にまで、その感動は共有できるものであった。

感動した群衆にいつも包まれて、オフの日に道も歩けないくらいの生活を送ったのである。

病人の病気を言葉で命じて追い出させ、死んだ者を蘇生させ、パンや魚を増やし、不思議な譬え話を年中話して天の様子を伝え、仲間と共に祈った。

そう言う奇跡を起こした瞬間ごとに、イエス自身も周りの人間も、愛の感動の嵐に包まれていたのである。

彼は全てを愛するから、そういう常人には有り得ない、突拍子もない、変わりきった人生であった。

だって神だもの。

メシアだもの。

突然、山の中で、服が輝く白い衣に変化して、雲に乗って天に昇ってしまう人だもの。

それが最期には十字架刑で命まで奪われ、人々を涙で包んだのだから。

とんでもなく泣かせる奴だったのだ。

イエスの生涯は愛の感動物語であったと、言っても良いくらいであろう。

 

このように人類愛の始祖は、愛して感動して毎日を生ききっていた。

我々現代に生きる人だって、彼の与えた愛する掟に従えば、感動する生活を送れるに違いない。