『CROSS』八切りサイズ
作者近影
「愛すれば感動が訪れる」
毎日感動して生きるなんて難しいかもしれない。
本当に感動することなんか、一生に数えるくらいかもしれない。
でも、感動は些細なことでも毎日あったほうが良いと思う。
こちら側からアクションしたことによる意識的な感動、と言ったものはできるんじゃないかな。
対象物を行為によって愛した結果訪れる、心から安心した感覚。
最初に答えを言ってしまうと、
「感動とは、何かを愛したことによって起こる神様の奇跡」だ。
ちょっと違うことをして、違う発見をした時に、ああそうだったと深く思うものだ。
そういう感動なら毎日味わえるだろう。
つまり、それは対象物を愛していることに他ならない。
そういう瞬間に、悟りのように感動が訪れるのである。
感動して生きることが何で良いかといえば、感動こそ、「生きてる証」を自分でだけで味わえる瞬間だからである。
つまり、証である「愛」を味わえる。
だから感動なのだ。
その瞬間こそ神様の与えた最大の贈り物なのだ。
毎日毎日変わらない生活を続けていれば、そりゃ感動はないだろう。
別に「泣く」までいかなくたって、自分が愛に少しでも揺れ動けば、それは感動なのである。
感情が動くと書いて「感動」である。
愛によって自分の中身が、本質が、動く時だ。
私の場合は、ドラマチックな映画を観た時に、演者の愛に関わる行為の背景に、素晴らしい音楽と映像美術が合体して共に流れる瞬間、背筋がスーッとヒンヤリなる感覚がある。
その時、深く深く愛を味わった、と思う。
つまり、感動しているのである。
聖書の話をすると、イエス・キリストの生涯は、愛の感動の連続であった。
イエスだけではなく、イエスの関わる仲間や末端の人々全部にまで、その感動は共有できるものであった。
感動した群衆にいつも包まれて、オフの日に道も歩けないくらいの生活を送ったのである。
病人の病気を言葉で命じて追い出させ、死んだ者を蘇生させ、パンや魚を増やし、不思議な譬え話を年中話して天の様子を伝え、仲間と共に祈った。
そう言う奇跡を起こした瞬間ごとに、イエス自身も周りの人間も、愛の感動の嵐に包まれていたのである。
彼は全てを愛するから、そういう常人には有り得ない、突拍子もない、変わりきった人生であった。
だって神だもの。
メシアだもの。
突然、山の中で、服が輝く白い衣に変化して、雲に乗って天に昇ってしまう人だもの。
それが最期には十字架刑で命まで奪われ、人々を涙で包んだのだから。
とんでもなく泣かせる奴だったのだ。
イエスの生涯は愛の感動物語であったと、言っても良いくらいであろう。
このように人類愛の始祖は、愛して感動して毎日を生ききっていた。
我々現代に生きる人だって、彼の与えた愛する掟に従えば、感動する生活を送れるに違いない。