小学校同級生と記念写真
仲間と共に
「愛の掟:他者を自分のように愛する」
身に纏う閉鎖的な殻を破り捨てよう。
自分の外にバリアーを張り、一方的に他者を許容しない気持ちが一番良くない。
自分を許しているように他者にも許す。
また自分の許せないことに関しては、他者にも許させない。
そういう愛と共感が人間社会には必要なのである。
そりゃ、自分は可愛くたって仕方ない。
この世は、結局自分だけの命だもの。
自分がいなきゃ世界は認識できないし、結果、世界じゃないのだから。
でもね、それをほぼ世界の全てのみんながが思ってたらどうだろう?
なんでもない隣の人だって、自分と同じくらい自分が可愛い。
そんなの当たり前だろう?
みんな自分が可愛いから、この世の暮らしを良くしようと、終わりある一生の内にあくせく働くのだから。
みんな自分が可愛い。
なら、「他者も自分の事のように愛してあげる」しかないじゃない。
もちろん、人と人とは、「人類」だという共通点を置いて、全てが全く違う。
体型も、財産も、家庭環境も、社会的境遇も、みんな全てが違う。
そういう中で生じるギャップで、多く持つ人間を妬んだって仕方ないじゃない。
多く持つ者だって、人間的弱さは少なく持つ者と変わらない。
ズルいズルいと妬むなら、そんな人だって結局弱くて同じなんだと、代わりに愛してあげれば良いのである。
端的に言うとこうだ。
少なく持つ者も、多く持つ者を愛してあげれば良いのである。
その逆もそうだ。
多く持つ者は、少なく持つ者を愛してあげるべきである。
まあ、でも社会は実際、何にも言わなくてもキリストが世界に広めた「愛の掟」でそうなっていると思う。
「愛の掟」とはキリスト教の用語であるが、それは「他者を自分のことのように愛すること」である。
だが、少なく持つものが多く持つ者を愛することが、この人間社会ではほぼ不可能なくらいに、難しいのかもしれない。
例えば、テレビでやってるニュースを見てみなよ。
みんな、総理大臣や大統領のように多く持てる者が批判されて、貧しい人と比べて社会の敵のようにこき下ろされてるではないか。
でも実際の世界はどうだろう。
本当は、多く持てる者が少なく持てる者を助けているではないか。
はっきり言うと、金持ちが貧乏人を救っているのだよ。
むしろ貧乏な者ほど他者から奪うしかなく、強盗や殺人をしているではないか。
そこまで行かなくても、日本では、年金暮らしの貧しい老人が万引きしている事件が後を絶たないじゃないですか?
それって結局、貧者が犯罪に陥りやすいってことですよね。
話は変わるが、富者や社会的強者ばかりが批判されるマスコミのバッドニュースは、実は反人間的プロパガンダであり、人類愛を邪魔しているのである。
だって貧しい者は情報源が少ないために、単純にテレビを「へえ、そうなんだ。」と信じてしまうじゃないの。
本当はそんなの、番組製作者がコントロールしている風潮に過ぎないのにね。
まあ、人間は生きてるかぎり、自分が可愛く、また他人も自分が可愛い。
そうしたら他の人だって、自分のように愛してあげるっきゃないでしょ。
それが人間としての「愛の掟」であり、昔から続く「社会的礼儀」でもあるのだ。
その姿勢が、長い人類の歴史で、人間の尊厳を保ってきたのである。
それが崩れた先に、今の壊れつつある世界があるのだろう。
「世界を破壊から救うために何をするのか?」
それは「自分が他者を愛する。」
それだけで必ず良く変わる。
仮に、この地球上の半分の人口がそんな当たり前の事をするだけでも、世界は随分回復していくことだろう。
私は人間の持つ「愛する力」を信じている。
だってその力が今の私を作り上げたのだから。