写真作品「女の肖像」(画家:アオキトモミ)
2022.11.外苑前イチョウ並木
「人への迷惑を考えない時代」
昨夕仕事の帰り道、自転車置き場を通る時、見知らぬ親父に「チェッ。」とやられた。
私の何がいけなかったのかを跡を引くまでに悩んだが、私には粗相は見当たらなかった。
そうか、この親父の態度が今の時代の象徴なのだな、と思うしかなかった。
見知らぬ人に向かって自分勝手な都合で苛立ち、舌打ちする。
そうしている自分に気がつかないし、相手にその態度が伝わっているかも気にしない。
そういう本当の自分勝手さだな、と思い当たった。
舌打ちされた私の心はどうなるのですか?
目の前の人に舌打ちしといて、当たり前だと言わんばかり。
そういう傲慢さを、現代人の象徴であると感じ取った。
また、私は有名人なので、公共の場に行くと必ず私の近くで、私の話題をされる。
褒められたり、けなされたり、ああだこうだ、どうだああだ。
そういう私の話で近くの人たちはいつも、「自分たちの享楽のためだけに」盛り上がる。
特に電車の中は、毎日いつでも私について何かを近くで言われ、居心地の悪い試練の場でもあるのだ。
女性二人組や、女子校生の集団は特に私の苦手とするところである。
特に私が嫌なのはサングラスをかけている時に「怖い」と、すぐ近くで囁かれることである。
その時に、先ほどの自転車置き場の舌打ち親父と同じことを思う。
怖い人の近くで「怖い。」と言ってしまう、その現代人特有のメンタリティーの低さを哀れに思うのだ。
昔はヤクザ者も街中にいて、見た目の怖い人の近くで怖いと言うことは、本当に禁句であった。
もし言って、それが怖い人に聞こえてしまったら、「なんだと、馬鹿野郎!」と、実際に暴力を振るわれて自分の身が危なかったからである。
私も街中で昔は見たことがあるが、ヤクザ者が変な事をそばで言った一般人をどこかの端っこに連れて行ってボコボコにすることは日常の中にあった。
それもつい20年前まではそうだった。
それを考えると今の人たちは老若男女、隣人の迷惑も考えず、その人の近くで何でも平気で口にしているなあ、とつくづく思う。
言われた人が聞こえているにも関わらず、それに気が付かないで話に夢中になっている。
「褒めるのも含めて、あなたの口にしていることは、言葉の暴力ですよ。」
と、言ってやりたい。
私は言われるたびに傷ついているのだ。
その時、昔みたくヤクザ者がそばにいてくれて、ボコボコにしてくれればいいのに。
と、内心切実に思う時がある。
ああ、今は本当に隣人の心に対して無関心の時代なのだな。
私はそれを思った時だけ厭世観に浸るのだ。
昨日の帰りの、心当たりのない「チェッ」の舌打ちに、私は苛立ちを隠せない。
迷惑者は自分で自分の言動を律するなど絶対しないし、公共の場での迷惑を律してくれる誰かも現代にはいない。
今は、他人への迷惑も迷惑と思わない、無関心の時代だ。
迷惑された者は、迷惑されっぱなしで泣きを見る。
だから最近は、本当は言いにくいのだが、人の迷惑を取り締まる「国の風紀委員」みたいな仕事の人が公共の場にいてほしい、とつくづく感じている次第である。