絵画作品『CROSS』
YUTAKAと楽しい仲間たち
「できないことを諦めるのは「逃げ」ですよ」
「自分には結局できない。諦めたからもう楽だ。」
多くの人はそれを「悟った」と勘違いしています。
それは私が一番嫌いな「思い」です。
多くの人はこの思いに至って、物事をやめてしまいます。
こういう諦念感は、悟った風に安心するだけで、悟りでもなんでもありません。
結局できない事を識っても、自分の身分を勝手に低く思い直すだけです。
諦めてもうやらないのだから、確かに楽です。
でももし楽なだけで辞めたら、その時に楽なだけで、同様の試練がこの先の人生に必ず訪れるので、一生困り続けることになるでしょう。
要するに、人間としてもう成長しない。
そんな諦めは、楽ちんさに逃げたいだけの間違った悟りですね。
私は、一度始めた物事をこういう風に諦めることを、一番の不徳であると思っています。
なんで決めたことをやらない?
私の思いはただそれだけです。
私が思うに、自分に対する出来ない諦めとは、ただの責任逃れのワガママのことでしょう。
だって、そもそもあなたは自分にやろうと誓ったわけでしょ?
それは、「出来る出来ない」じゃなかったはずです。
「やる」、と言うことを誓ったわけですから。
それを、「出来ないから」と言って辞めるのはお門(おかど)違いですよね。
やると決めた自分への約束を放棄することです。
要するにそれは、楽さへの「逃げ」じゃないですか?
諦めが悟りであったなら、なぜ仏教の開祖である「ブッダ」は、あんなに諦めずに「悟りへ至る道」に生涯を捧げたのでしょうか?
彼は、食べないでガリガリな肉体になるまで苦しみ抜いて、悟りへの道を追求しました。
要するに「悟り」が大きな目標であり、一大使命でありました。
彼は、元々が何不自由の無い古代インドの王族でしたが、家族を捨てて乞食の身分にまで成り下がって、荒地で悟りの境地を開き、目覚めました。
明日は野垂れ死にする覚悟で、菩提樹の下で、悟りと向き合いました。
要するに彼は決して、決めた目標を諦めなかったわけです。
諦めるとは、そもそも「明らめる=明らかにする」行為です。
彼は、悟りで、人間の存在意義を明らかにしました。
難しい捉え方になりますが、要するに彼は、人間存在を明らかにする代償に、この世の自分の身分を「諦めた(明らかにした)」わけです。
それは、目標を諦めたわけではありません。
目標を叶えた代わりに、自分の身分を諦めたのです。
まあ、諦めるのは楽だけど、学ぶ事など本当は何にもありません。
良く「諦めて分かった。」と、目標から逃げた後に、「学び」の意味で言う人がいますが、それは「学び」じゃありません。
「自分には出来ない。」と自己暗示を掛けて、自分の可能性を縮めているだけで、何が学習なのでしょうか?
本当の学びとは、「決めたことをやる苦しさ」の中にあります。
やって、失敗しては、失敗の原因を分析して次に頑張る。
この一連の動きの中に「本当の学び」があるのです。