絵画作品『CROSS』
作者近影
「社会で働く社会人になろう」
今の私の生活は、ごちゃごちゃした様々な仕事を一挙に引き受けて一生懸命に生きている、と言った具合です。
もちろん私は芸術家です。
芸術作品での収入もあります。
経済的に困窮しているわけではありませんが、それでもそれ以外の仕事もたくさんこなしています。
経営者としての仕事や、絵画教室講師、パソコン教室講師、銀座ギャラリースタッフ、ホームページデザイナーと、自分の持てる限りの知識と体力を総動員して副収入も得て生活しています。
別にそれをやらなくても暮らしていけるのに、他の仕事もやっている。
それは、私が真の意味で「社会人」でありたいからです。
よく、「芸術家は作品制作だけしていればそれで良い」という考えの芸術家は多いですが、私の考えではそれでは全然ダメです。
社会と触れ合い、社会の中で活躍しないことには、本当に一流の芸術家とは言えません。
それは作品制作して展覧会をしているだけではダメなのです。
ではどうするのかといえば、「実社会で働かなきゃいけない」。
つまり労働です。
何かしらの労働している事実が、芸術家には必要なのです。
実社会に出て働きもしないで、芸術と社会について能書きを捏ねている作家がたくさんいますが、そんなもの嘘八百です。
どうして社会を実体験もしていないのに、さも知っているように偉そうに語れるのでしょうか?
知ったかぶりもいいところです。
私がこんなに社会性にこだわるのは、卒業して出た大学が「早稲田大学社会科学部」なのも影響しています。
当然、在学中には様々な社会科学の知識をたくさん吸収しましたが、同時にたくさんアルバイト労働もして、社会を若いなりに実際的に勉強しました。
例えば、かの有名な「銀河鉄道の夜」の大作家・宮沢賢治だって働いていました。
彼は農家に生まれ、厳しい農業の世界で、朝から晩まで汗水流していたのです。
頭を使う作家としての仕事もこなしながら、力仕事の農業もして生計を立てていました。
知識と体力を両方使い、頭脳労働と肉体労働を同時にこなしたスーパーマンでした。
だからこそ彼の独特な文章には、社会を映す説得力があり、多くの者を魅了する類まれな神通力があるのでしょう。
岡本太郎だって、それを言ってます。
著作集の中で、「俺は40歳で社会人にやっとなれた。」と。
それは彼は新聞記者としてライティングする仕事を、大手新聞社から頂戴したためです。
社会に対してメッセージを発信するには、自分が社会人でなければならないと、彼は常日頃思っていたのです。
それを人の縁で新聞記事を書けるようになり、40歳でライターとして稼ぎ始めたわけです。
太郎さんは、作品をどれもこれも一切販売しなかったし、作品での収入はゼロでした。
実は、彼は裕福な家に生まれたので、それだけで生活できたのもその理由です。
父親が新聞の有名一コマ漫画家「岡本一平」、母親が有名小説家「岡本かの子」で、彼らの稼ぎが凄かったために彼らの亡き後も、子の太郎さんは遺産だけで食べていけました。
それでも太郎さんは、「実社会で働かない社会人でない自分」に強いコンプレックスを持ち続け、やっと40歳で社会人としての収入が得られたことを、大いに誇りに思っていました。
「本当に自分の芸術を社会に投げかけられる。」と心底喜んだのです。
大物二人を出しましたが、このように芸術家は社会で労働して初めて、作品が社会的な説得力を持ち始めるのです。
それは動かせない事実でしょう。
だから私も働くのです。
ただ「十字架の抽象画」を描いてたって、絵空事に終わります。
私が社会で働いた結果が、色や形の雰囲気や意味合いなどで、作品の中に吹き込まれていることが重要なのです。
作品がよりリアルになるには、作家は社会で労働しなきゃなりません。
昨今の絵画界では、スーパーリアリズムが一世風靡し、デパートやギャラリーのそこかしこでたくさん売れています。
売れるという商売の意味ではその絵は大成功です。
しかし私が思うに、写実画はリアルですが、それは対象物を鉛筆デッサン的に精確に写し取ったに過ぎず、表現として写真と変わりがありません。
だったら上手い写真を撮ればよく、プロ写真家の撮る写真には、絵は結局叶わないと感じています。
果たしてそんな絵が、人間の真実に対して本当にリアルなんでしょうか?
私はどんな作風の作品でも、作家が社会で得た何かしらの成果が、ありありと映し出されているものこそ、リアルだと感じています。
それには、やっぱり「社会的労働」なんです。
自分に社会の中で役割を課してこそ、作品に真実味が生まれる。
本当に真剣な芸術をやるのなら、絵を描くだけでなく、労働することが重要だと、私は心底思っています。
だから私は、本業の作家業以外にも、絵のエッセンスと勉強になる「副業」の世界でも働いているのです。