サンタと共に「シーーーッ」
狭山湖ダムにて
ESSAY
「善悪の判断について」
善悪の区分けが嫌いな人がいますが、善と悪を分けたらいけないのでしょうか?
善も悪もなく現象しかないとしたら、この世は無味乾燥した世界となるでしょうね。
肝心な「心」がそこにはありません。
反キリスト者が、仏教思想を強調したいがためにわざとそうやって言っているのなら、それには無理があるかもしれません。
だって、仏教だって死んで極楽浄土に行くには、魂を清めた仏に成らなきゃいけないんでしょ?
それって悪者じゃいけないって発想ですよね?
つまり、仏教だって善悪があるじゃないですか。
例えば、隣で倒れた誰かを助ける事は、善にならないですか?
それは悪なのですか?
助けたことの現象しかないとしたら、ずいぶんそれは物理的だと言わざるを得ません。
心がありませんよね。
人間は心がある限り、善も悪もくっつけたいものなのですよ。
意地悪はやイジメは、善ですか?
隣で助けを求める人間を引っ叩くのは、善ですか?
明日の食事もない人から食物を取り上げるのは、善ですか?
世界を滅ぼそうと企むのは、善ですか?
いや、これらは私には、悪にしか思えない。
善も悪もないという考えは、人間の素朴な心を否定しています。
私はカトリッククリスチャンですが、私たちキリスト者(カトリックのクリスチャンの事)は、キリストの教えた「主の祈り」の中で必ず唱えます。
「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。」と。
これは、キリスト者にとっての究極の祈りです。
善悪の概念がなければ、そのこと自体が叶いません。
つまり悪がなければ、キリスト教自体が成り立たなくなるわけです。
そこで私は言いたい。
愛は善です。
人のために尽くす事。
それがすなわち善なのです。
愛から離れること。
これがすなわち悪である。
古来ユダヤの世界では、モーセの十戒に反することが悪でした。
「盗んではならない。殺してはならない。貪ってははならない。姦淫してはならない。。。・・・」
など、その十項目の教えは、すべて悪だとされていました。
しかし、キリスト死後の世界からは「愛から離れた事が悪」だと、掟を一本化させました。
愛の有る無しが、つまり、善悪なのですよ。
この人間世界では、そうやってシンプルに、物事の善悪の判断をつければ良いのではないでしょうか?
【俳句】
・聖書では 毒麦出づる 悪の果て
・毛布着て 悪い奴ほど よく眠る
・悪つまり 愛なき冬の 無関心
・愛離れ 寒き朝から 口喧嘩
・愛は善 天狼目指し 輝けり