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「逆転勝利の人生でした」

夫婦渋谷散歩より

渋谷「平和の鐘」

YUTAKAと愛琥、夫婦で「渋谷:平和の鐘」にて
YUTAKAと愛琥、夫婦で「渋谷:平和の鐘」にて

国立代々木競技場

「丹下健三」設計建築した「国立代々木競技場」を背景に
「丹下健三」設計建築した「国立代々木競技場」を背景に

生搾りオレンジジュースの自販機

渋谷ロフトの裏道


ESSAY

「逆転勝利の人生でした」

 

 

私の人生は形勢逆転の勝利ばかりでした。

人間を測る価値は勝ち負けでないことは知っていますが、今の私は、はっきりいえば勝者です。

しかし振り返れば、いつも何か始める時は、大体は負けている状態でした。

しかし、コツコツ努力を続けた結果、途中からは「負け」が「勝ち」に形勢を転じています。

そして、勝っていても努力を緩めず継続し続けたために、怠けた勝者達よりも圧倒的な勝利を勝ち取るパターンで生きてきたと思います。

 

例えば私は芸術家ですが、まずこの「芸術家のポジション」についてが、そう言えます。

まあ誰でもそうですが、私は始め「なんでもない人」でしたし、むしろ芸術家をやるには負けポジションでした。

だって私は、芸大(東京芸術大学)も5美大学(多摩美、武蔵美、女子美、造形大学、日大芸術学部)も出ていませんからね。

はっきりいえば、芸術家として社会で名を成すために、これだけで最初っから負けポジションです。

医者が医学部出ていないようなものですから。

でも今は「芸術家」を、自分のアイデンティティーに於いても、芸術業に関する社会的な役職に於いても、不動のものとして築き上げました。

それは弛まぬ努力がそうしたと、断言できます。

出た大学は社会的に有名な早稲田大学ですが、私は社会科学部でしたからね。

そもそも芸術畑じゃないんですよ。

それに、27年前の私の大学入学時に早稲田には芸術学部はありませんでしたので、芸術に関しての知識は大学図書館に通い、ほぼ独学で築き上げてきました。

また、芸大も美大も出ていない代わりに、実は伝説の美術学校「セツ・モード・セミナー」を出ています。

セツには早稲田大学と合わせて通い、早稲田卒業後もセツ研究科生徒として在籍し、トータル5年間通いましたが、そこでは人物デッサンと作品自由制作の実学を学びました。

私は、その頃は20歳前後の大学生でしたが、生活のためのアルバイト勤務にも激しく従事していて、「学業と芸術と労働」という3本柱で生きていて、大学生としては余裕のない生き方を選んでしまっていました。

まあ、いわゆる「苦学生」ですね。

芸術家の卵としても、余裕がない時点で全くの負け状態ですね、これは。

その後無事、早稲田大学も卒業した後は、社会人を何年かやり、その後はフリーランスの芸術家に転じて、およそ今まで21年間、芸術家をやり続けてきました。

この21年間の継続努力が、芸術家:YUTAKAを作ったと言っても過言ではありません。

まず自分の表現が世の中に認めてもらえないという根本的な悩みから始まり、その後も美術界の人間関係でも様々な困難なことがありましたが、途中から形勢が逆転しまして、今は勝利を手に入れたと思っています。

まあ、今は、およそ100年歴史のある日本全国区美術団体「新構造社」の「委員」として上層役員の一員にもなり、また60年歴史のある横浜の美術団体「港の作家美術協会」の「事務局長」にもなりました。

また「日本美術家連盟」の「会員」にもなっていますので、それが日本における美術家としての正式な資格にもなっています。

44歳でここまでポジションを築き上げたわけですが、同年代の周りの芸術家を見渡しても、ここまで手に入れた人間は数えるくらいにしかいません。

まあ、私は要するに芸術家として「社会的に勝っている」わけです。

 

形勢逆転の勝利が得意なんですね、私。

芸術家としてだけでなくその他、私のヒストリーを冷静に振り返って考えてみても、私は必ず初っ端から負けて始まっています。

それで結局は、「敗者復活戦で成り上がって一気に優勝してしまうタイプ」だと、自認しています。

で、なんでそうなったかは、繰り返しますが「弛まぬ努力」です。

勝っても負けても変わらぬ努力を続けた結果、形勢逆転を呼び込み、勝利を呼び込んだわけですね。

 

 

 

【俳句】

・努力して 勝ち負けでない 月見草

・夏日影 踏みし歴史の 勝者かな

・夏日向 ギラつく恋の 夜想街

・ねーちゃんの 尻追いかける 夏の性

・おっぱいを 揉んでしだいた 夏の宿